構造分析 京極夏彦
姑獲鳥の夏 表紙

姑獲鳥の夏

The Summer of the Ubume

「この世には不思議なことなど何もないのだよ」──全ての怪異は、認知の歪みだった。

姑獲鳥の夏は、京極夏彦のデビュー作にして百鬼夜行シリーズの第一作です。20ヶ月の妊娠、消えた夫、取り憑かれた女──並べるとオカルトホラーに見えますが、構造を分解すると、これは「認知の歪みが怪異を生む」ことを証明する哲学ミステリーであることが分かる。中禅寺秋彦(京極堂)が行う「憑き物落とし」は、エクソシズムではなく、認知の枠組みを再構築する知的手術です。読者の「当たり前」を徹底的に揺さぶるこの物語は、ミステリーの概念そのものを拡張した記念碑的作品です。

物語の設計図

出来事 行動 心理
因果 伏線
関口巽は友人から奇妙な話を聞く。久遠寺医院の娘・梗子が「20ヶ月間妊娠している」
梗子の夫・牧朗が密室状態の部屋から失踪。死体も手がかりもない
関口は古本屋の主人にして陰陽師・中禅寺秋彦(京極堂)に相談する
京極堂は「この世には不思議なことなど何もない」と断言。全てに合理的説明があるはずだと
「不思議なことなど何もない」──物語全体を貫くテーゼ。怪異の否定から始まる怪異小説
探偵・榎木津礼二郎が独自に調査。彼は人の記憶が「見える」異能を持つ
久遠寺医院には忌まわしい過去がある。戦時中の人体実験、精神を病む患者たち
関口自身が事件に深く関わっていたことが判明する。「語り手」の信頼が崩壊する
語り手・関口の信頼性崩壊。読者が依拠していた「視点」そのものが歪んでいた
京極堂が「憑き物落とし」を行う。関係者全員の認知の歪みを一つずつ解きほぐす
20ヶ月の妊娠は「想像妊娠」。梗子は妊娠していなかった。消えた夫は最初から存在しなかった
「箱」の中に最初から答えがあった。全員が「見えていたのに認識できなかった」
「箱の中の答え」。シュレーディンガーの猫を応用した認知トリックの核心
怪異は消えた。残ったのは人間の認知が作り出した悲劇だけだった

設計図のここがすごい

分析を終えて

フローチャートに起こして最も驚いたのは、この物語が「直線的に進んでいるように見えて、実は最初から答えが提示されている」という構造です。京極堂の「この世には不思議なことなど何もない」は、単なるキャラクターの口癖ではなく、物語の設計図そのもの。読者はこの宣言を聞いているにも関わらず、怪異に引き込まれていく。つまり、読者もまた「認知の歪み」に囚われるのです。

関口という語り手の設計が秀逸です。フローチャートで関口の動線を追うと、彼が「観察者」ではなく「当事者」であることが見えてくる。語り手が信頼できないミステリーは他にもありますが、「語り手の不信頼性」と「作品テーマ(認知の歪み)」が完全に一致している例は稀有です。関口の歪みは彼個人の問題ではなく、人間の認知そのものの脆弱性を体現している。

そして京極堂の「憑き物落とし」。フローで見ると、彼が行っているのは「新しい事実の発見」ではなく「既知の事実の再配置」です。全ての情報は最初から揃っていた。ただ、関係者全員が「見えているのに認識しない」状態にあった。京極堂がやるのは、認知の枠組みを組み替えて、同じ事実に別の意味を与えること。

1994年に刊行されたこの作品は、日本のミステリーに「認知」という変数を持ち込んだ革命的な一冊です。怪異は人間の外にあるのではない。人間の脳の中にある。その一点を、圧倒的な知識と構造力で証明してみせた京極夏彦の手腕に、フローを描きながら改めて脱帽しました。

この構造で物語を書いてみる

プロット構築ツールで、名作の構造をテンプレートにして自分の物語を組み立てられます。

テンプレートストアへ